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1979年度明石高専_高田 佳子さん
明石高専OGの高田佳子さんは、高専生時代は陸上競技にエネルギーを注いでいたとのこと。みんなが笑顔でいられる空間づくりを目指し、卒業後3年で現在の株式会社アートランドを設立させました。そんなバイタリティある高田さんから「体力・気力・笑顔は、どんな時代にも役立つ能力」とのエールをいただきました。(文責:連合会事務局)
私が明石高専に入学したのは1974年、4学科800人中、女子学生は各学年1-4人程度で、私の在学中20人を超えたことはなかったと記憶しています。たまたま、中学卒業時に親が新築した家が明石高専正門から300メートルの位置にあり、一番朝寝坊できそうで、当時一番人気が建築学科だったという、その後の行き当たりばったり人生を示唆するご縁で入学したのでした。
最初は、周囲の環境や学ぶ内容についていけず、モヤモヤの連続でした。とはいえ、エネルギー量の高い年頃で、モヤモヤというより大きな不満のエネルギーを抱えて生活していました。幸いなことに建築が大好きになったことと、中学と同じ陸上部に入部でき、毎日走ることで発散できたのが、6年かかったものの、なんとか卒業できた大きな理由です。明石高専は海が近いので、夏休みは陸上の練習が終わったら、海に泳ぎに行き、学校に戻ってこっそりプールに忍び込み、また1Kmほど泳ぐ。その位のエネルギーを使わないと、爆発しそうでした。
高専卒業時、すでに自分の建築家としての才能不足に気づいていたので、設計事務所ではなくテントメーカーに就職しました。人が一生笑顔でいられる空間づくりを仕事にしたいと思ったからです。日本初の東京ドームの屋根の研究段階の実験や、大スパン構造物やイベント会場の設計等、夢のある楽しい仕事がたくさんある会社でした。しかし、3年半でその会社を退職し、企画・設計の株式会社アートランドを1983年に設立しました。みんなが笑顔でいられる空間づくりを目指していたのですが、メーカーの仕事の先にそれが見えなかったからです。
退職後、展示設計を学びたくてボストン子ども博物館に修業に行きましたが、帰国後は設計の仕事から遠ざかり、ライブパフォーマンスのプロデューサー、ケアリングクラウン、笑いヨガといろいろな仕事をしてきました。40代になってから大学院で老年学を学び、高齢者の健康に笑いを取り入れた笑トレ・笑いケアが現在の仕事です。まったく違う仕事をしているようですが、人が笑顔でいられるための空間をつくりたいという想いは変わらず、その時々で自分は何ができるのか、それを考えて仕事を続けてきました。
過去を振り返るのは意味がないと思っていたので、東京に来てからは高専時代の交友は少なかったのですが、夏の陸上部の同窓会だけは、参加していました。50才のときに関東に住む明石高専出身者の会に参加しました。一回り以上年齢が上の人、自分の子どもといっても良い年齢の人がいましたが、そこで、自分の原点はここにあるのだと感じました。職業や、出身学科・年齢が違っても、共通している何かがありました。そこから、高専のつながりを大事にするようになり、仕事上もプライベートも良い関係が続いています。
体力・気力・笑顔は、どんな時代にも役立つ能力です。高専の陸上部で培った体力と、理想を目指す気力は高専時代に得た一生ものスキルです。これを使い、これからも誰もが笑って一生過ごせるお手伝いをしていきたいと思います。